今日はあいにく雨となり傘をさしながらバスを乗り換え、そしておよそ6kmの行程を歩きながらの探訪でした。以下、いくつか要所を紹介します。
まずは歴史の概要から(かなり粗いですが)
ジュネーブの歴史はサレブ山に紀元前1万1千年ごろから人が住み始めた証拠があります。その後は、BC58年にジュリアス・シーザー(カエサル)がその地に来た事から始まったそうです。ローマの町づくりのために必要となる水源を確保するための水道の導水管を建築した跡があるのです。結構、水道管が紀元前からあったということ自体が非常に驚きですが、それをローマに集中させるためにジュネーブやフランスなどの比較的高地から引いてくるという発想と実現がさらなる驚きです。
その後、ローマ帝国の時代にはジュネーブもそれに取り込まれたり、国として自立出来たりと苦難と変動の時代を繰り返したようです。それが1500年代位まで続き、その後、ジュネーブの最も象徴的な「宗教改革」の時代に入ってきます。カルバンが活躍した時代もこの付近であり、 1602年にジュネーブの勝利宣言によって幕を閉じます。スイスはこの間の1291年に正式にその歴史が始まりました。ジュネーブの方が歴史が古いのです。
前述しましたが、この時まではジュネーブはスイスの市ではなく、一個の国としての位置づけがありました。それが宗教改革後のスイスの拡大と他の州とのスイスへの統合と共に1815年にジュネーブ州となりました。
そして、その後はアンリ・デュナンやデュフール将軍などの働きでジュネーブの新しい町づくりが始まります。1847年にジュネーブに新憲法を制定し、その翌年スイスに新憲法が制定されます。そのすぐ後1864年に第1回ジュネーブ条約により「赤十字」が発足します。
1919 年には「国際連盟」がジュネーブに発足します。第一次、二次世界大戦を通して1945年に「国際連合」が発足します。スイスが国際連合に加盟したのは 2002年の最近の事で190カ国目だそうです。こうして今に至っており、ジュネーブが紀元前からヨーロッパを中心とする歴史の位置的な中心をなしており、様々な各国の影響を受けており、それらを通して今に至るまで世界の中心的な国際調整を行う場の象徴となっていた事がわかります。
以下、他に今回散策した時に撮った写真をいくつか載せます。

国家記念碑。1814年にジュネーブ共和国がスイス連邦加盟を決議した事を記念するものです。あくまで主体は「ジュネーブ共和国が」です。左側がジュネーブを表す婦人で、右側がスイスを表す婦人です。それぞれの盾を持ってスイスの方向を見ているのです。

ウイルソン宮殿。初期の国際連盟の事務局。アメリカ大統領のウッドロー・ウイルソンが国際連盟を創設したことから、この名がついています。現在は、建物が手狭になったので、現在の国連の位置に移動しました。

マルセル・ジュノーの記念碑。ジュノー博士は赤十字委員会の代表として、被爆後の広島入りしその状況を調査すると共に、米軍のGHQと交渉し救援物資や医薬品を放出させた他、自らも医師として救援活動に従事したそうです。広島の生存者に救援をもたらした最初の外国人医師としての功績だそうです。

グランジュ公園のバラ園にて。バラの品評会が開かれている様です。雨露に濡れたバラもきれいですね。

今回の参加者(約25名)です。皆Kさんの解説を真剣に聞いています。他にも色々たくさんの場所を案内してもらいましたが、やはり自分の足で歩いてみて興味があれば調べる事が一番良いと思います。
おまけです。ジェドオ(噴水)の由来ですが、元々ジュネーブの噴水の起源は工業と生活用水となる水のポンプによる送水の余剰能力を噴水に当てた事から始まっているとの事です。休日には工業生産はお休みなので、そのポンプの余剰能力を停止させる手間を省くため噴水のために使ったらしいのです。それが結局街の景観の印象となり、そのまま定着したようです。
それにしても、こういうのが世界史の勉強っていうのでしょうね。実際に自分でその地に訪れて実感しながら、さらに興味を持って調べないと歴史って身にならないですよね。特に、今回僕は、ジュネーブはヨーロッパの中心地として、常にその歴史上で上下左右の隣国から様々な影響を受けていた事はやはりこの都市の特質を決める大きな作用であり、その最も大きな作用が「宗教改革」だったのではないか?と思いました。ここにいる機会に宗教改革について調べる事が出来たらと思います。





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